藤田嗣治 絵画と写真 東京ステーションギャラリー

  おはこんハロチャオ!!

カノンさんですよ!!!


 藤田嗣治 絵画と写真を見に行きました。

藤田嗣治の絵画展は以前も行ったことがありますが、今回のは趣向が変わっていて、絵画と写真展となります。スライドショーや、動画など、幅広く飾ってありました。

 時代は満遍なくフォローしてますが、写真はやはり時代的なこともあるので、戦後特にフランスに渡った後の方が多いです。

 藤田嗣治は世界中を飛び回り、様々な人種、様々な服飾、気候風土、老若男女ありとあらゆる人々を描いている。

 勿論、彼の代名詞とも呼べる、乳白色をベースにした幼女の絵も何点かありました。

こんな姿の幼女は存在などするはずがないと、理性ではわかっているのに、目が離せなくなる。存在しないから惹かれるのか、どこかで存在して欲しいと考えるのか、一瞬の幼女の姿を切り取ったような、姿を眺めるだけです。


 だが、今回私の目に止まり続けたのは、「マドンナ」と呼ばれる一枚の油彩画でありました。

 中南米の褐色の肌をした女性をモデルにした、聖女画。十五人の子供の天使は、全員が彼女を見るのではなく、あらぬ方向を見ているものもいます。天使と呼ぶより、その顔は生々しく子供を想像させるでしょう。正面の聖女は顔を左に向け、顔の右側は光により、少しだけ暗く描かれています。髪はウェーブがかかっており、女性らしさを強調しているでしょう。手は細く、指は不自然なほど細く長く美しい。桜色の爪は、桜色の爪は、全体の落ち着いた色調の中で、控えめながらも確かな存在感を放っています。

 ケープは否応なしに、この絵がマリヤ、聖女画であることを示しています。服の色は水色だが、光の当たり方によって微妙な濃淡が生まれ、柔らかさを感じさせます。袖は赤で肩から袖口に向かうに従い、明るくなっています。袖口は白く、さらに巻かれるように白い布が輪を作るように、柔らかく腕に絡まっています。

 一つ一つの色は主張をしながらも、全体に不思議な調和を醸し出している。


 彼女は何を見ているのだろう。両手を胸の前で交差して、一体何を包み込もうとしているのだろう。聖女画である、それでも、聖女のような超然さよりも、生命に溢れる心の強い一人の人間の女性に見えます、超然さがないからこそ、人間だからこそ、延々と見る事ができるのでしょう。


 出口付近には、戦時中に描いた、7歳の頃の自画像がありました。説明書きに、「藤田嗣治はなぜ此頃に、7歳の自画像を描いたのでしょう。きっと意味のあることでしょう」と観覧者に問いかける説明書きは好感がもてました。

 更には、晩年の自画像の背景に、初老の父親の絵画と十代の頃の母親の絵画が背景にあるのは、面白い構図だと思いました。



 

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