『2666』ロベルト・ボラーニョ|第三部の感想と考察


『2666』ロベルト・ボラーニョ

第三部の感想と考察


 冒頭は、第三部の主人公であるフェイトの嘆き、憤り、後悔、強がりといった、彼の心の吐露から始まる。


 母の死、アフリカ系アメリカ人としての歴史、それらを踏まえて、彼はサンタテレサに行くこととなる。


 フェイトの目を通して、僕らはサンタテレサの街並みを知ることになる。以前よりも殺人事件の噂が耳に入ってくる。


 殺人事件を追う女性記者とも会う。彼女の名前はグアダルーペ。独特な話し方をする女性だ。彼女は「何もかもが怖くて。……」という。ふらつきながら歩いて行く彼女は、酒に溺れ、浴びるように飲んでいるという。常に酩酊していなければ、落ち着くことができないのだろう。


 そう、「落ち着き」だ。この章では「落ち着き」という言葉が出てくる。

 しかし、この章自体は落ち着きがない。フェイトは常に動き回っている。人の死も同様に落ち着かず、何度も同一人物の死の話が出てくる。


 サンタテレサに入っても、フェイトは落ち着きなく動いているが、時間はゆっくりと流れるように感じられる。だが、チューチョはこの街に足りないものを「時間ってやつが足りないのさ」という。


 巻雲の話が出てくる。空は青く、美しいのだろう。全てが巻雲のように儚いバランスで保たれているかのようだ。


 作中で語られる「落ち着きの領域」というのは、運動の指示器、加速装置、減速装置を指すようだが、これはまるで時間そのものだ。


 ロサ・アマルフィターノを連れ出す時、フェイトはこう考える。「ハーレムの黒人だ、とんでもなく危険な黒人野郎だからな」と。だが、目の前のメキシコ人は驚かない。

 ここでようやく、この街が本当に怖いと素直に思えるのだ。


 どこにいても、「怖い」という感覚は本来怖いはずのものなのだ。しかしサンタテレサでは、「怖い」という感覚が麻痺している。日常に溶け込みすぎているのだ。怖がっているのは、外から来た者だけだ。怖いという感覚が機能しない。常に溺れているはずなのに、何もしないまま、そのままスーッと沈んでいくかのようだ。


 フェイトは、刑務所の面会に行かず、直接国境を越えようと言う。そして、国境を越えた夢を見る。

 

 母か、もしくは隣のホリーさんの言葉を思い出す。「女たちの言うことは尊重しなければいけない。大事なのは女たちの恐怖に耳を閉ざさないことだよ」。取材先のシーマンは「母親ほど大切なものはありません。……」と言っている。

 

 フェイトのにとっての落ち着きは、思い出の中の母や、今目の前にいる二人の女性なのだ。


 そして物語は、忘れかけていた「ドイツ」の存在を思い出させる。ドイツ語で歌う大男、そしてグアダルーペの言う「盲人のような目」が再び現れる。

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