『ならずものがやってくる』 ジェニファー・イーガン

『ならずものがやってくる』――「わかる」ことの危うさと、現在の足場


 ジェニファー・イーガンの『ならずものがやってくる』を読み終えて、まず突きつけられたのは、「人を見るとはどういうことなのか?」という問いだった。


 人が過去を語るからといって、それが真実とは限らない。思い出には修正が入り、それが記憶違いなのか、あるいは無意識の捏造なのか、本人でさえ判別がつかない。


 第一章の主人公であるサーシャは、盗癖(クレプトマニア)を持つ女性だ。正直なところ、読み始めは彼女に好感を持つことが難しい。だが、物語はさまざまな角度、さまざまな時代、そして多様な人物の視点から、彼女(や彼女を取り巻く人々)を映し出す。そうして視点をコロコロと変えながら断片を拾い集めていくうちに、サーシャという人間の立体的な側面が見えてくるような「気」がしてくる。

 もちろん、それは「気がする」だけだ。どれだけ多角的に描写されても、彼女の内面を本当に理解したことになどなるわけがない。


 この小説は、時間は残酷な「ならずもの」だと高らかに謳う。だが、テーマはそれだけではない。その「ならずもの」である時間に対して、苦しみ、もがき続けながらも、他者と支えあおうとするサーシャは、他の多くの登場人物とは少しだけ立ち位置が違う。

 彼女は、過去だけを見つめているのではない。現在の中にこそ、自分の足場を見つけ出そうとしている。

 だからこそ、彼女は周囲の人物から「幸せになってほしい」と切に願われる存在であり続けるのだろう。


 この作品は、章ごとに文体や形式が激変する「実験小説」とも評される。(パワーポイントだけで構成される章など)それらの実験がすべて成功しているのか、その判断は私には難しい。

 パワーポイントの章の少女を、登場人物の誰よりも想像してしまうが。 しかし、このバラバラな手法こそが、私たちが他者を(そして自分自身を)いかに断片的にしか認識できていないか、という現実を映し出しているようにも思えた。

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