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新訂 小林秀雄全集 第二巻

 新訂 小林秀雄全集 第二巻  「死んだ中原」  もし僕が中原中也を知らなくても、もし僕が中原中也と小林秀雄の関係を知らなくても、「死んだ中原」を読んだなら、僕の心をとらえて離さなかっただろう。  僕は中原中也の詩を読んだこともあり、中原中也と小林秀雄の関係を知っている。当然真実であったり本質的なことは当事者しかわからないのだから、世間一般で言われていることを知っているだけだ。  ただ、どちらにしても「死んだ中原」は僕の心を捉えた。  声を出して読んでみた。何度も繰り返し読んでみた。  「……この僕に一体何が納得できただろう……」  自分の親しい人物の死に、納得なんぞできるはずがないのだ。  たとえ、それまでにどんな体験をしていたとしても、二人の関係が複雑になったとしても、納得なんぞでできるはずがないのだ。  第二巻には他の多くの文章が載っているが、「死んだ中原」以上の文章はないと僕は思う。

オルセー展と西洋美術館

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 「室内をめぐる物語」 1. 欲望という名のリアリズム:ドガの背中 今回の展示の白眉は、ドガの《身体を拭く女》だった。 光り輝く印象派の室内画とは一線を画す、パステルで描かれた生々しい肉体。それは30〜40代の、生活の重みを背負った女性――おそらくは当時の娼婦の姿だ。 ドガは「覗き見」の視点で彼女を冷徹に観察したが、そこには皮肉な矛盾がある。無防備な背中を見つめる時、観客である男の内側には「後ろから抱きしめたい」という肉欲的な衝動が芽生える。ドガが追求した客観性は、かえって人間の最も本能的な欲望を暴き出してしまったのではないか。その「失敗」こそが、この絵に抗いがたい「美」を与えている。 2. 日本人の美意識:醜さへの耐性と「救い」 会場を巡りながら、一つの仮説に辿り着いた。 「人間は真実の美しさを見ることはできないが、同時に醜さを見つめ続けることもできない」。 特に日本人はその傾向が強い。だからこそ、光で世界を浄化した印象派を愛し、ゴーガンの冷徹な視線よりも、自らの醜さや苦悩を輝く黄色へと昇華させようとしたゴッホに救いを見出すのだ。 3. 常設展への旅:スーチンとブーグローの対比 オルセー展を後にし、常設展へ。そこには「人間を描く」ことの両極端があった。  * スーチンの《心を病む女》: 歪んだ顔、震える赤。直視しがたい魂の叫び。  * ブーグローの《小川のほとり》: 汚れなき白い肌、完璧な理想の美。 この二枚を並べて見たとき、人間を見ることができる。 エピローグ:幾筋もの未来を抱いて ブーグローの描いたあの「汚れのない少女」の瞳。 彼女の未来には、幾筋もの道が続いている。ある時はドガの踊り子になり、ある時はパトロンのマダムになり、ある時は労働に明け暮れる女になり、そしてある時はスーチンの狂女になるかもしれない。 画家が「今」を描くことは、その人物が辿るかもしれない残酷で多様な未来をすべて内包することだ。 アートはもはや自然を写すものではなく、人間と社会の深淵を描くものになった。モネが睡蓮に自らの心を託したように、私たちはキャンバスの中に、自分たちの「生きた証」を探し続けている。 1枚目のドガは、今回の室内をめぐる物語に展示されてますが、写真は撮れません。これは以前常設展に展示されている時の画像です。

『2666』ロベルト・ボラーニョ|第五部の感想と考察

 『2666』ロベルト・ボラーニョ|第五部の感想と考察    冒頭に片目の女と片足の男が登場する。第五部の主人公ハンス・ライターの両親である。  ライターは少し変わってはいるものの、普通の少年として描かれている。どんな少年でも、周囲に語ることができるエピソードが一つや二つある。物語はそのように語られていく。  第二次世界大戦という、世界中の人間が、巻き込まれた歴史のうねりの中、彼も戦場に行く。  運命なんて劇的な言葉ではなく、彼は一つ一つ確実に自分で選んでいく。  それは初めて盗んで宝物になった本  初めて自分で選んだ読んだ小説  戦前の友人たち  そして隠し部屋に隠された、手記を読むこと!  戦後、本を読むこと、用心棒の職についたこと、インゲボルクと付き合い結婚したこと、家族に会いに行かなかったこと。  何より小説を書いたこと。  彼は、劇的なことを何もしない。当たり前に社会の中で、役割をこなして、余暇に自分の好きなことをする。彼は僕らと何一つ変わらない。  彼がこれまで経験したことはそれぞれの受け止め方次第で、どのようにも変化をする。  もし、彼の人生に劇的なことがあるとするならば、男爵令嬢に戦前、戦中、戦後と出会ったことだろう。  男爵令嬢はその登場からしてアルチンボルディに大した影響を与えないと私は考えていた。だが彼女は彼女の人生があり、断片的な彼女の性格や人生を読むことで、戦後のアルチンボルディとの再会に私は驚き声をあげたのだ。  男爵令嬢がアルチンボルディに会いに行ったとき。家族との出会いはどうだったかと、彼女は問う。彼は聞いてくれ!と言う。沈黙を聞いてくれ!彼女は思う沈黙は聞こえないと。彼女はそれを言わずに沈黙で答える。裸のまま窓を開けて、二人で街に降る雪を眺める。  情景を二人で見て、沈黙の中、いずれ記憶の中に声と音が宿る。その街が形を変えて、変化するように。  それは、延々と喋り続けるインゲボルクとはまた別の世界である。  2666の登場人物たちは激しく人生を変える劇的なことを経験するが、それは誰しも経験する可能性があることと、淡々と書かれている。  だが男爵令嬢とアルチンボルディの戦後の出会いとその後の関係は、まるで劇的に見えないからこそ、良いのである。  孤高の天才であると言われたアルチンボルディに男爵令嬢がいたことによって、この出口の...

『2666』ロベルト・ボラーニョ|第四部の感想と考察

 『2666』ロベルト・ボラーニョ|第四部の感想と考察    読み始めると違和感を覚える。会話のカッコがない。一箇所だけ「おはようございます、ケスラーさん」と言うのが常だった。というところだけである。  多くの被害者と加害者、背神者、警察、精神科医、マスコミ、霊媒師、弁護士、政治家が現れては消えていく。  サンタテレサの事件は、連続殺人事件とフェミサイド、闇社会の粛清と何も判明しない事件があるようだ。しかし誰もそれを分けることなく、サンタテレサの連続殺人事件として理解する。  サンタテレサが特殊だから、繋がっていないのではなく、狂気が繋がっていると本能的に理解するのである。  それでも、死体を見れば知らない人物であろうが、祈りを捧げ、憤慨して泣き叫ぶ。隣人の子供が行方不明になれば、親のように心配して慟哭する。ルームメイトが殺されて、子供だけが残れば、ルームメイトが私が今後子供の面倒を見ると言う。  愛すべきメキシコ人であるはずなのに、男性の女性蔑視と嫉妬と嫉みは止まらない。  少ないが救いはある。若い警官のラロ・クーラが、無理強いすれば夫婦であってもレイプになるといったシーンである。周りの警官は愚か者を見るような目で彼を見ていたが、それでも彼の勤勉さと誠実さは白眉である。だからこそ彼は、周りに注意され、笑われる。誰よりも勇気があり、行動力そして勤勉な彼であってもヒーローにはなれない。ヒーローがいない世界で、彼はいつまで自分の信念を保ってられるか、悲しみしかない。  驚くことに暴力シーンはほぼない、淡々とパソコンのキーボード音が聞こえるほどの淡々さで、被害者の女性の死因と家族の状況と犯人に関わることが、描かれている。それゆえに、日々を力強く生きている女性に心を打たれてしまう。人生と死の恐ろしさ、読み手離さない絡みつくべったりと何枚も何枚も魂に貼りつけられる。  仕事場に近いが、手作りの家から、距離はあるがきちんとした家に引っ越した家族。娘と二人仕事場まで話しながら歩くのは時間を忘れさせた。淡々と描かれているからこそ、深く心を捉えてしまう。  センセーショナルな、死体の状況よりも、何も分からない死体、家族が見える死体が人生を否応なく想像してしまう。  女性が、人間が弱くても懸命に自分だけができる努力だけが美しい、されどそれは台風の目なのかもしれない、一瞬だけの美...

『親衛隊士の日』ウラジーミル・ソローキンを読んで

 『親衛隊士の日』ウラジーミル・ソローキンを読んで  舞台は、ヨーロッパとの間に巨大な壁が築かれ、中国が技術大国として台頭した近未来のロシア。    主人公のコミャーガは、当初、体制に忠実なだけの人物として描かれている。  しかし、物語が進むにつれて彼の内面が徐々に見え隠れする。ロシアの未来を憂い、伯爵への合図を見落とし、皇后へ欲情し、いずれは隊長の地位に就きたいと野心を抱く。彼の本当の欲望が垣間見えたとき、私たちは彼が自分たちと何も変わらない人間であることに気づかされる。  彼は、私たちの周りにもごく普通にいる人物なのだ。そして、彼に惹きつけられれば惹きつけられるほど、作中に登場する人物たちの欲望のすべてが、実は自分自身にも潜在的に存在するのではないかと、錯覚、あるいは確信めいたものを感じるのである。

『2666』ロベルト・ボラーニョ|第三部の感想と考察

『2666』ロベルト・ボラーニョ 第三部の感想と考察  冒頭は、第三部の主人公であるフェイトの嘆き、憤り、後悔、強がりといった、彼の心の吐露から始まる。  母の死、アフリカ系アメリカ人としての歴史、それらを踏まえて、彼はサンタテレサに行くこととなる。  フェイトの目を通して、僕らはサンタテレサの街並みを知ることになる。以前よりも殺人事件の噂が耳に入ってくる。  殺人事件を追う女性記者とも会う。彼女の名前はグアダルーペ。独特な話し方をする女性だ。彼女は「何もかもが怖くて。……」という。ふらつきながら歩いて行く彼女は、酒に溺れ、浴びるように飲んでいるという。常に酩酊していなければ、落ち着くことができないのだろう。  そう、「落ち着き」だ。この章では「落ち着き」という言葉が出てくる。  しかし、この章自体は落ち着きがない。フェイトは常に動き回っている。人の死も同様に落ち着かず、何度も同一人物の死の話が出てくる。  サンタテレサに入っても、フェイトは落ち着きなく動いているが、時間はゆっくりと流れるように感じられる。だが、チューチョはこの街に足りないものを「時間ってやつが足りないのさ」という。  巻雲の話が出てくる。空は青く、美しいのだろう。全てが巻雲のように儚いバランスで保たれているかのようだ。  作中で語られる「落ち着きの領域」というのは、運動の指示器、加速装置、減速装置を指すようだが、これはまるで時間そのものだ。  ロサ・アマルフィターノを連れ出す時、フェイトはこう考える。「ハーレムの黒人だ、とんでもなく危険な黒人野郎だからな」と。だが、目の前のメキシコ人は驚かない。  ここでようやく、この街が本当に怖いと素直に思えるのだ。  どこにいても、「怖い」という感覚は本来怖いはずのものなのだ。しかしサンタテレサでは、「怖い」という感覚が麻痺している。日常に溶け込みすぎているのだ。怖がっているのは、外から来た者だけだ。怖いという感覚が機能しない。常に溺れているはずなのに、何もしないまま、そのままスーッと沈んでいくかのようだ。  フェイトは、刑務所の面会に行かず、直接国境を越えようと言う。そして、国境を越えた夢を見る。    母か、もしくは隣のホリーさんの言葉を思い出す。「女たちの言うことは尊重しなければいけない。大事なのは女たちの恐怖に耳を閉ざさないことだよ」。取材先のシーマン...

『ならずものがやってくる』 ジェニファー・イーガン

『ならずものがやってくる』――「わかる」ことの危うさと、現在の足場  ジェニファー・イーガンの『ならずものがやってくる』を読み終えて、まず突きつけられたのは、「人を見るとはどういうことなのか?」という問いだった。  人が過去を語るからといって、それが真実とは限らない。思い出には修正が入り、それが記憶違いなのか、あるいは無意識の捏造なのか、本人でさえ判別がつかない。  第一章の主人公であるサーシャは、盗癖(クレプトマニア)を持つ女性だ。正直なところ、読み始めは彼女に好感を持つことが難しい。だが、物語はさまざまな角度、さまざまな時代、そして多様な人物の視点から、彼女(や彼女を取り巻く人々)を映し出す。そうして視点をコロコロと変えながら断片を拾い集めていくうちに、サーシャという人間の立体的な側面が見えてくるような「気」がしてくる。  もちろん、それは「気がする」だけだ。どれだけ多角的に描写されても、彼女の内面を本当に理解したことになどなるわけがない。  この小説は、時間は残酷な「ならずもの」だと高らかに謳う。だが、テーマはそれだけではない。その「ならずもの」である時間に対して、苦しみ、もがき続けながらも、他者と支えあおうとするサーシャは、他の多くの登場人物とは少しだけ立ち位置が違う。  彼女は、過去だけを見つめているのではない。現在の中にこそ、自分の足場を見つけ出そうとしている。  だからこそ、彼女は周囲の人物から「幸せになってほしい」と切に願われる存在であり続けるのだろう。  この作品は、章ごとに文体や形式が激変する「実験小説」とも評される。(パワーポイントだけで構成される章など)それらの実験がすべて成功しているのか、その判断は私には難しい。  パワーポイントの章の少女を、登場人物の誰よりも想像してしまうが。 しかし、このバラバラな手法こそが、私たちが他者を(そして自分自身を)いかに断片的にしか認識できていないか、という現実を映し出しているようにも思えた。