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『2666』ロベルト・ボラーニョ|第五部の感想と考察

 『2666』ロベルト・ボラーニョ|第五部の感想と考察    冒頭に片目の女と片足の男が登場する。第五部の主人公ハンス・ライターの両親である。  ライターは少し変わってはいるものの、普通の少年として描かれている。どんな少年でも、周囲に語ることができるエピソードが一つや二つある。物語はそのように語られていく。  第二次世界大戦という、世界中の人間が、巻き込まれた歴史のうねりの中、彼も戦場に行く。  運命なんて劇的な言葉ではなく、彼は一つ一つ確実に自分で選んでいく。  それは初めて盗んで宝物になった本  初めて自分で選んだ読んだ小説  戦前の友人たち  そして隠し部屋に隠された、手記を読むこと!  戦後、本を読むこと、用心棒の職についたこと、インゲボルクと付き合い結婚したこと、家族に会いに行かなかったこと。  何より小説を書いたこと。  彼は、劇的なことを何もしない。当たり前に社会の中で、役割をこなして、余暇に自分の好きなことをする。彼は僕らと何一つ変わらない。  彼がこれまで経験したことはそれぞれの受け止め方次第で、どのようにも変化をする。  もし、彼の人生に劇的なことがあるとするならば、男爵令嬢に戦前、戦中、戦後と出会ったことだろう。  男爵令嬢はその登場からしてアルチンボルディに大した影響を与えないと私は考えていた。だが彼女は彼女の人生があり、断片的な彼女の性格や人生を読むことで、戦後のアルチンボルディとの再会に私は驚き声をあげたのだ。  男爵令嬢がアルチンボルディに会いに行ったとき。家族との出会いはどうだったかと、彼女は問う。彼は聞いてくれ!と言う。沈黙を聞いてくれ!彼女は思う沈黙は聞こえないと。彼女はそれを言わずに沈黙で答える。裸のまま窓を開けて、二人で街に降る雪を眺める。  情景を二人で見て、沈黙の中、いずれ記憶の中に声と音が宿る。その街が形を変えて、変化するように。  それは、延々と喋り続けるインゲボルクとはまた別の世界である。  2666の登場人物たちは激しく人生を変える劇的なことを経験するが、それは誰しも経験する可能性があることと、淡々と書かれている。  だが男爵令嬢とアルチンボルディの戦後の出会いとその後の関係は、まるで劇的に見えないからこそ、良いのである。  孤高の天才であると言われたアルチンボルディに男爵令嬢がいたことによって、この出口の...

『2666』ロベルト・ボラーニョ|第四部の感想と考察

 『2666』ロベルト・ボラーニョ|第四部の感想と考察    読み始めると違和感を覚える。会話のカッコがない。一箇所だけ「おはようございます、ケスラーさん」と言うのが常だった。というところだけである。  多くの被害者と加害者、背神者、警察、精神科医、マスコミ、霊媒師、弁護士、政治家が現れては消えていく。  サンタテレサの事件は、連続殺人事件とフェミサイド、闇社会の粛清と何も判明しない事件があるようだ。しかし誰もそれを分けることなく、サンタテレサの連続殺人事件として理解する。  サンタテレサが特殊だから、繋がっていないのではなく、狂気が繋がっていると本能的に理解するのである。  それでも、死体を見れば知らない人物であろうが、祈りを捧げ、憤慨して泣き叫ぶ。隣人の子供が行方不明になれば、親のように心配して慟哭する。ルームメイトが殺されて、子供だけが残れば、ルームメイトが私が今後子供の面倒を見ると言う。  愛すべきメキシコ人であるはずなのに、男性の女性蔑視と嫉妬と嫉みは止まらない。  少ないが救いはある。若い警官のラロ・クーラが、無理強いすれば夫婦であってもレイプになるといったシーンである。周りの警官は愚か者を見るような目で彼を見ていたが、それでも彼の勤勉さと誠実さは白眉である。だからこそ彼は、周りに注意され、笑われる。誰よりも勇気があり、行動力そして勤勉な彼であってもヒーローにはなれない。ヒーローがいない世界で、彼はいつまで自分の信念を保ってられるか、悲しみしかない。  驚くことに暴力シーンはほぼない、淡々とパソコンのキーボード音が聞こえるほどの淡々さで、被害者の女性の死因と家族の状況と犯人に関わることが、描かれている。それゆえに、日々を力強く生きている女性に心を打たれてしまう。人生と死の恐ろしさ、読み手離さない絡みつくべったりと何枚も何枚も魂に貼りつけられる。  仕事場に近いが、手作りの家から、距離はあるがきちんとした家に引っ越した家族。娘と二人仕事場まで話しながら歩くのは時間を忘れさせた。淡々と描かれているからこそ、深く心を捉えてしまう。  センセーショナルな、死体の状況よりも、何も分からない死体、家族が見える死体が人生を否応なく想像してしまう。  女性が、人間が弱くても懸命に自分だけができる努力だけが美しい、されどそれは台風の目なのかもしれない、一瞬だけの美...

『親衛隊士の日』ウラジーミル・ソローキンを読んで

 『親衛隊士の日』ウラジーミル・ソローキンを読んで  舞台は、ヨーロッパとの間に巨大な壁が築かれ、中国が技術大国として台頭した近未来のロシア。    主人公のコミャーガは、当初、体制に忠実なだけの人物として描かれている。  しかし、物語が進むにつれて彼の内面が徐々に見え隠れする。ロシアの未来を憂い、伯爵への合図を見落とし、皇后へ欲情し、いずれは隊長の地位に就きたいと野心を抱く。彼の本当の欲望が垣間見えたとき、私たちは彼が自分たちと何も変わらない人間であることに気づかされる。  彼は、私たちの周りにもごく普通にいる人物なのだ。そして、彼に惹きつけられれば惹きつけられるほど、作中に登場する人物たちの欲望のすべてが、実は自分自身にも潜在的に存在するのではないかと、錯覚、あるいは確信めいたものを感じるのである。

『2666』ロベルト・ボラーニョ|第三部の感想と考察

『2666』ロベルト・ボラーニョ 第三部の感想と考察  冒頭は、第三部の主人公であるフェイトの嘆き、憤り、後悔、強がりといった、彼の心の吐露から始まる。  母の死、アフリカ系アメリカ人としての歴史、それらを踏まえて、彼はサンタテレサに行くこととなる。  フェイトの目を通して、僕らはサンタテレサの街並みを知ることになる。以前よりも殺人事件の噂が耳に入ってくる。  殺人事件を追う女性記者とも会う。彼女の名前はグアダルーペ。独特な話し方をする女性だ。彼女は「何もかもが怖くて。……」という。ふらつきながら歩いて行く彼女は、酒に溺れ、浴びるように飲んでいるという。常に酩酊していなければ、落ち着くことができないのだろう。  そう、「落ち着き」だ。この章では「落ち着き」という言葉が出てくる。  しかし、この章自体は落ち着きがない。フェイトは常に動き回っている。人の死も同様に落ち着かず、何度も同一人物の死の話が出てくる。  サンタテレサに入っても、フェイトは落ち着きなく動いているが、時間はゆっくりと流れるように感じられる。だが、チューチョはこの街に足りないものを「時間ってやつが足りないのさ」という。  巻雲の話が出てくる。空は青く、美しいのだろう。全てが巻雲のように儚いバランスで保たれているかのようだ。  作中で語られる「落ち着きの領域」というのは、運動の指示器、加速装置、減速装置を指すようだが、これはまるで時間そのものだ。  ロサ・アマルフィターノを連れ出す時、フェイトはこう考える。「ハーレムの黒人だ、とんでもなく危険な黒人野郎だからな」と。だが、目の前のメキシコ人は驚かない。  ここでようやく、この街が本当に怖いと素直に思えるのだ。  どこにいても、「怖い」という感覚は本来怖いはずのものなのだ。しかしサンタテレサでは、「怖い」という感覚が麻痺している。日常に溶け込みすぎているのだ。怖がっているのは、外から来た者だけだ。怖いという感覚が機能しない。常に溺れているはずなのに、何もしないまま、そのままスーッと沈んでいくかのようだ。  フェイトは、刑務所の面会に行かず、直接国境を越えようと言う。そして、国境を越えた夢を見る。    母か、もしくは隣のホリーさんの言葉を思い出す。「女たちの言うことは尊重しなければいけない。大事なのは女たちの恐怖に耳を閉ざさないことだよ」。取材先のシーマン...

『ならずものがやってくる』 ジェニファー・イーガン

『ならずものがやってくる』――「わかる」ことの危うさと、現在の足場  ジェニファー・イーガンの『ならずものがやってくる』を読み終えて、まず突きつけられたのは、「人を見るとはどういうことなのか?」という問いだった。  人が過去を語るからといって、それが真実とは限らない。思い出には修正が入り、それが記憶違いなのか、あるいは無意識の捏造なのか、本人でさえ判別がつかない。  第一章の主人公であるサーシャは、盗癖(クレプトマニア)を持つ女性だ。正直なところ、読み始めは彼女に好感を持つことが難しい。だが、物語はさまざまな角度、さまざまな時代、そして多様な人物の視点から、彼女(や彼女を取り巻く人々)を映し出す。そうして視点をコロコロと変えながら断片を拾い集めていくうちに、サーシャという人間の立体的な側面が見えてくるような「気」がしてくる。  もちろん、それは「気がする」だけだ。どれだけ多角的に描写されても、彼女の内面を本当に理解したことになどなるわけがない。  この小説は、時間は残酷な「ならずもの」だと高らかに謳う。だが、テーマはそれだけではない。その「ならずもの」である時間に対して、苦しみ、もがき続けながらも、他者と支えあおうとするサーシャは、他の多くの登場人物とは少しだけ立ち位置が違う。  彼女は、過去だけを見つめているのではない。現在の中にこそ、自分の足場を見つけ出そうとしている。  だからこそ、彼女は周囲の人物から「幸せになってほしい」と切に願われる存在であり続けるのだろう。  この作品は、章ごとに文体や形式が激変する「実験小説」とも評される。(パワーポイントだけで構成される章など)それらの実験がすべて成功しているのか、その判断は私には難しい。  パワーポイントの章の少女を、登場人物の誰よりも想像してしまうが。 しかし、このバラバラな手法こそが、私たちが他者を(そして自分自身を)いかに断片的にしか認識できていないか、という現実を映し出しているようにも思えた。

『2666』ロベルト・ボラーニョ|第二部の感想と考察

 第二部は、第一部のラストでほのめかされたアマルフィターノがサンタ・テレサに到着した時点から始まる。  第一部での彼の変化を知る読者は、この人物に多大な好奇心を抱いている。  しかし、物語はすぐに彼の妻ロラの話へと移る。ロラの物語は、現実感が希薄でありながら、同時に「確かにありうる」と感じさせるリアリティを持つ。それゆえに、読者の心のヒダに絡みつき、突き放すことができない。  やがて再びアマルフィターノの物語に戻る時、読者は一瞬、霧が晴れたかのように錯覚する。だが、目の前に現れたのは我々の良く知る世界ではない。そこは、何が不安なのかも分からず、その「分からなさ」自体が不安感をさらに増幅させていく世界だ。  恐ろしいことに、サンタ・テレサでは、彼の周りにいる家族や同僚たちの行動よりも、遠い故郷であるチリの伝説的歴史の方がよほど「本物」のように感じられてしまう。  アマルフィターノは「亡命」という稀有な経験を生き抜いてきた人物だ。しかし、そんな彼でさえ、サンタ・テレサという土地では精神に変調をきたしてしまう。    彼は合理的・科学的な「幾何学の本」ではなく、混沌とした「チリの伝説に満ちた歴史書」に傾倒していく。彼のアイデンティティの拠り所が、「科学」から故郷の「チリ」へと移っていくのだ。  本当は、論理的な幾何学図形のいたずら書きも、真偽不明の怪しい歴史書も、この土地の現実の前では大差がないことを、彼自身が知っているはずなのに。  この章では、多くの人物が精神の安定を図ろうともがく。ゲーラ・ジュニアが突飛な行動で安定を図るように。アマルフィターノ自身も、会話の中で「心の平穏だけが裏切らない」と語る。  この気味の悪い世界で、誰もが「心の平穏」を保つために、それぞれの儀式的な行動にすがる。そこは、わずかなバランスを崩しただけで、二度と霧の中から抜け出せなくなる世界なのだ。  そして、我々読者はその結末を知っている。アマルフィターノが、ついに心の平穏を得ることができなかったことを。第一部(批評家たちの部)で描かれた彼の姿が、すでに平穏とは程遠いものであったように。リズ・ノートンが評した通り、彼はあらゆる物事を「無視」するにはあまりにも繊細な人物であり、この土地の異常さから目を背けることなど、できるはずもなかったのだ。

『2666』ロベルト・ボラーニョ|第一部の感想と考察

『2666』ロベルト・ボラーニョ|第一部の感想と考察  導入は、四人の主要人物の紹介と、彼らのアルチンボルディとの出会いから始まる。  本や作家との出会いは、誰もが経験し、また経験したいと願うことである。だからこそ、僕ら読者はこの導入を「自分ごと」として読むことができる。  ノートンとアルチンボルディとの出会いを、作者は「衝撃的でもなく、詩的でもない」と評しながら、彼女の出会いの経緯だけを詳細に描いている。  それによって、読者は逆に、他の三人とアルチンボルディの出会いを想像させられる。  第一部では、ところどころ不思議な場面が差し挟まれる。例えば、モリーニは失明したと書かれているにもかかわらず、その後に新聞を読んでいるシーンが出てくる。  そして、文章は全体を通して不穏な気配を感じさせる。物語の雰囲気そのものが、すでに不穏なのである。  この章は、批評家たちがアルチンボルディを探す旅であり、また(モリーニたちにとっては)エドウィン・ジョーンズに出会う旅でもある。  アルチンボルディは見つからない。だが、すぐそばにいることが示唆されて終わる。  彼は謎だけが残る。ドイツ人ということ以外は、少しのエピソードがあるだけだ。  作中で「彼は盲人の目をしていました。別に彼が盲人だと言ってるわけじゃないが……」と語られるように、彼の目は何を語っているのだろうか。想像すればするほど、批評家たちが想像で話していたような、的外れな考えだけが浮かんでくる。  エドウィン・ジョーンズはモリーニに「自分たちは似ている」と言う。  モリーニは、エドウィン・ジョーンズの手を切った理由をノートンに聞かれ、「お金のためさ」と答える。ノートンはその答えを受け入れる。二人が同じ方向を見ていると感じられるこの点は、この章の救いの一つである。  このエピソードは、モリーニがかつて出会った無職の男の話と対照的だ。その男は、給料が上がったにもかかわらず、「自分がつくっている物に責められるような気がして」職を辞めてしまう。  対照的だが、それぞれは独立してもいる。無職の男もエドウィンも(そしてモリーニも)別人であるのだから。芸術家であろうが、誰であろうが、人には孤独があり暗闇がある。それが当たり前なのだ。  ところどころで夢を見た話が出てくる。それが余計に、夢が詳しく書かれていればいるほど、現実世界の情報だけ...